凡人るいちの徒然ばなし

徒然なるままに書いていこうと思います。ぼくの考えたことを多めに時事問題と絡めてお届けしようと思います。参考になるかも知れないし、ならないかも知れない。けど、ぼくへの見方は変わるかも知れない。

挫折と失敗。ときどき復活。

どうも、凡人るいちです。

ここ数日は雨が続いていて、よい自粛生活になっているのではないでしょうか?緊急事態宣言が出されてから1週間以上経ちますが、いつも通りの生活に戻るために、残りの数週間の辛抱です。逆に、我慢できずに外に出歩いてしまっているという方も将来の自分のために今は少しでも我慢していきましょう。

ということで、本日のテーマですが、先日「質問箱」にきていた質問の深掘りをしていきたいと思います。なので、いつもとは違って自分語り記事になります。

twitterでは満足に回答できない質問の時はこうやってブログで回答しようと思うので、遠慮せず送ってきてください。

このツイートについての深掘りです。

では早速いってみましょう!!

 

挫折と失敗

ぼく自身の「挫折経験」についての質問だったのですが、一晩考えても全然思いつかなかったです。しかし、「失敗経験」ならあるのではないかと思って考えてみたところ、いくつかありました。

普通の人なら、21歳にもなれば「挫折経験」の1つや2つあるはずなのですが、それが思いつかないというのはなんとも不思議だったので、その点の分析なども含めて話していきます。

 まず、本当に「挫折経験がないのか」ということについて答えていきます。

ぼく自身非常に忘れっぽい性格なので、「そもそも覚えていない」が答えになるかもしれません。なので、あんまり引きずることなく生活しているような気がします。

そして、「挫折する」ということは、裏返すと「その物事に本気で向き合った」ということだと思っています。つまり、ぼくは「まだ、本気で向かい合える物事に出会っていない」とも言えるかと思います。

それについては、「ある程度時間取り組めば一定レベルまですぐに上達してしまうこと」と「飽きっぽい性格」なので、その一定レベル以上を目指さないことも考えられます。

こういったことを考えてみて、やっぱり「挫折した経験はなかった」と考えています。

では、「失敗はしたことないのか」という点についても答えていきます。

単刀直入に言うと、これについてはたくさんあると思っています。

それはジャンルが多岐に及び、「恋愛のこと」や「就活のこと」、「学業のこと」などあげたらきりがないですが、どれも心に残る「失敗経験」ではなかったです。

むしろ、「良い勉強をした」と考えている節があることに気付きました。

ということで、ぼく自身の「失敗」のとらえ方が、「ポジティブさが強い」ことで、結果として鈍感になっていると考えられます。

簡単に失敗した例を挙げて、ぼくがどう捉えていたのかもお伝えします。(失敗したタイミングでそのように考えられていたわけではないですが…)

1つ目は「恋愛についての失敗」です。

これはみなさんご存じの通りかと思いますが、結構前にそんなことがありました笑

普通、思い人から振られたら、この世の終わりかと思うくらいへこむはずですが、このときばかりは相手の心遣いに助けられ、そこまで大きくへこんではいなかったです。

とは言っても、反省しないわけにはいかないので、一連の行動を振り返ってみて、「あのときこうしたらよかったかもな~」とか「このときのこれは上手くいってた気がするな~」とかを数日考えていました。

結果的には「じゃあ、次にそういうことになるときは今回の反省を生かして、行動していったら良いのかもしれないな…」と捉えていました。

2つ目は「就活についての失敗」です。

以前質問箱でお伝えしたとおり、「内定」という形で1社から、「内々定」という形で1社からいただいておりますが、やっぱり順風満帆とはいかなかったのが就活です。

特に、2月の1ヶ月間は実家に帰って、就活のみをひたすらする時期にしていました。その期間でだいたい30社くらいとは接触していると思います。(この点については、現代就活においてかなり多い数字であるとご理解していてください。)

その中で、ちょうど真ん中の週で「GD(グループディスカッション)も面接も通らない」スランプの時期が到来しました。「終盤にさしかかって、こんな調子で本当に大丈夫なのか?」や「いつも通りやっていれば大丈夫なんだから、いつも通りで良いじゃん」といった感じで、かなり自責的になっていました。

その結果、当たり前と言ったら当たり前ですが、めちゃくちゃ落ちたわけです。そしたら、また自分を責める。の繰り返しでした。

そんな中、ちょうど参加した2daysのインターンで「自分のリーダシップについて考える」ことをしました。

このインターンでの「リーダーシップ」とは「他者に影響を与えられる力」のことで、みなさんが思うものとは若干の差があるかもしれません。

この経験を通して分かったことが、ぼくは「楽しいと思うことにしか本気にならない」「「分からない」を外に出すことをしない」「一定数の力を得ると楽しくなくなる」でした。

たまたま、就活での失敗と性格による行動が結びついて、失敗していたときまでの逆で「楽しくないならやらない」「分からないならたくさん聞く」「新しいことに挑戦する」の3つを行動指針にして進めていって、内定にたどり着いたという流れになります。

こんな感じで2つの失敗を例に挙げて、何をして乗り越えたかもお話ししましたが、最後にこんな経験を通して気付いたことをお話しします。

 

自分復活のためには…

ぼくはそれほど多くない(と感じている)「失敗体験」の中からいくつかの「自分復活のコツ」を考え出しました。

それを少し書いて、「挫折の乗り越え方」の回答にかえさせていただきます。

初心に帰ってくること

ぼく自身行動をしているときに最初には明確にあったはずの目標を忘れてしまうことがありました。

そこで、うまくいかなくなったときには「なぜ、この行動をしているのか?」と自問自答して「そうか。○○が目的で行動していたのか!」と確認しています。

行動すると、主観的になっていてしまい、「自分は一生懸命やっているのに…!」と悪いところが見えなくなっていきます。そこで、客観的になってみることで、「この行動とこの目標は合致していないな。やめて他のことをしよう。」となっていきます。

そうすると、自然にうまくいくようになっていきます。

大切にしているものを大切にすること

これも同じですが、普段の生活の中で「自分の大切なもの」があるはずです。それは、家族なのか人脈なのか、それとも知識なのか、は人それぞれですが、その「自分の大切なもの」を大切にしてあげてください。

それが自分の唯一のよりどころです。そして、それを失ってしまうと自分が見えなくなってしまいます。

そうしたら、乗り越えられるものも乗り越えられなくなってしまいます。

ちなみに、ぼくの大切にしているものは「自分が行動して楽しい/面白いかどうか」と「自分にとって新しいかどうか」です。

感情を素直に出すこと

ぼくは以前の記事で感情について「ない方がよい」という趣旨のことを書きましたが、それは「人への判断の時の感情」の話で、今回は「自分自身の感情」についてです。

ぼくは「分からない」を出すことが下手で、それ故自分のキャパを超えるほどにタスクを背負い込みました。

しかし、「分からない」「知らない」を素直に出すようになってからは、キャパを超えることがなくなりました。

ぼくの場合はネガティブな感情を出せないでいましたが、ポジティブな感情も同様です。

「楽しい」や「面白い」「好き」といった感情も抑圧することで、「その感情が存在してはいけない」ように感じてしまうことがあります。

「思ったことはすぐにはき出すこと」は「自分復活」のための近道のような気がします。

 

ぼくの普段はこういったマイナスの感情を出すことはあまりないですが、今回は良い機会だと思ったので、戒めの意味を込めて書くことにしました。

質問者に届くかは分からないですが、参考になったら良いなと考えています。

それではまたいつか。

 

質問箱のリンクも貼っておきます。何でも聞いてください。

 

ruiyuu-zatsugaku-jiji-1998.hatenablog.jp

 前回の記事です。まだ読んでいない方は読んでみてください。

みんな一緒で、みんな良い?

どうも、凡人るいちです。

四月も中旬に入って、春らしいことを一切せずにこのまま大型連休を迎えそうですが、こういった辛い時期こそ、近くの友人や遠くの親戚などと力を合わせて乗り越えていかないといけないと感じています。

いつも長くなってしまう前振りはこのくらいにしておいて、本題に早速いきましょう。

今回のテーマは「公正・公平・平等」です。

ぼく自身は今このテーマで書くことに意味があると思っています。この記事を開いてくださった方は最後まで読んでいただけると幸いです。そして、自分の意見を明確に持ってもらえたら良いなと思います。

headlines.yahoo.co.jp

今回はこのニュース記事からの話でもありますが、みなさんは特段読む必要はありません。

問題はこのニュース記事のコメント欄にあります。

本当に助けが必要な人に早くお金が回るようにするよりも、必要ない人が得をすることが許せないという感覚は大問題。
みんなで等しく不幸にならないと気が済まないのかな。必要な人にとってはスピードが命だから、結果のアンバランスには目をつぶらないと。」(原文ママ)といったコメントが投稿されていました。

このコメントが良いか悪いかはさておき(ぼく自身は特に悪く思っていません)、論点としては、「平等であるべきか、公平であるべきか」ということだと理解しました。

おそらく、松田さんは「支給は平等であるべき」と考え、コメントした方は「支給は公平であるべき」と考えていたのでしょう。

では、この2つの似た言葉にはどのような違いがあるのでしょうか。そして、そこに「公正」というもう1つの似た言葉を付け加えると何が変わるのでしょうか。

 

公平・平等・公正の違い

今回もいつもと同じく、3つの言葉の辞書的意味を載せてから始めます。

 

公平

大辞林:かたよることなく、すべてを同等に扱うこと。

新明解:(問題になっているものを)自分の好みや情実などで特別扱いする事が無く、すべて同じように扱うこと。

平等

大辞林:差別無く、みなひとしなみであること。

新明解:その社会を構成する、すべての人を差別無く待遇すること。

公正

大辞林:かたよりなく平等であること。公平で正しいこと。また、そのさま。

新明解:特定の人の利益だけを守るのではなく、だれに対しても公平に扱う様子だ。

 

こうやって並べてみると分かることですが、公平と公正は似たような意味で、そして平等はまた違った毛色があると分かるのではないでしょうか。

ぼくは大学生なので、授業で教わったことを引用させてもらいます。

「2mの高さの壁があったとする。その前に身長100cm、120cm、150cmの子どもたちがいたとする。3人ともこの壁の向こうの景色を見てみたい。しかし身長が足りなくて見ることができない。」という状況があったとします。(よく分からない方は絵で描いてみてください)

こういった状況の時、「公平」と「平等」(公正は判断レベルのことなので除外します。)

「公平」では、「全員に110cmの台を渡すからそれで向こう側を見なさい」とします。

「平等」では、「100cmの子には110cm、120cmの子には90cm、150cmの子には60cmの台を渡すからそれで向こう側を見なさい」とします。

これが、分かりやすい「公平」と「平等」の違いだよ。と教わりました。

さて、お気づきの方もいるとは思いますが、どちらにも問題があるようです。それを次の章であげていきましょう。

 

公平・平等の問題点

先ほどの例が分かったという方はこのままお進みください。まだ、ぼんやりしているという方はもう少し考えてみてからこの先に進んでください。

ここでは問題点を挙げて、それがどうして起こるのか。ということまでお話しできれば良いと思っています。というのも、本来であれば、「解決策の提示」まで行うべきなのですが、それは大変難しいです。実際にできていればこの記事を書く必要もないことだと思います。

とはいえ、みなさんには「こういった問題がある」と認識してもらいたいです。それが、今後の政策等を判断するにあたって「重要な指針」になる可能性があるからです。

では、問題点の列挙といきましょう。

公平の施策での問題点は、「見ている高さが変わってしまう」ということです。

身長が高い方が高い視点から壁の向こうを見ることができ、低い方は低い視点からでしか壁の向こうを見ることができません。

そうすると、身長が低い方は身長が高い方に向かって「お前だけそんな高くから見られるのはずるい」というでしょう。主張はもっともなのですが、高い方は「そんなこと言われても…」と困惑してしまいますね。

これが公平の問題点です。そして、この問題は「支援を受ける側」で生じる問題点です。

次に、平等の問題点です。

平等の施策の問題点は「全員もらえる高さが違う」ということです。

最終的な高さはみんな210cmで同じなので、3人は納得していると思います。(たぶん)しかし、まわりの大人から見ると、「同じ事をしているのに違う支給なのはおかしくないか」と考えるかもしれません。

そうすると、大人たちは支給した人に向かって「何で別々なものにしたんだ」というでしょう。すると支給した人は「そう言われてもな…」と困惑してしまいそうです。

これが平等の問題点です。そして、この問題は「支援を受けているのを見た側」で生じる問題点です。

当然人間の心理としては「みんな一緒でみんな良い」がいいと考えています。しかし、それが視点が変わると上手く機能しなくなってしまうのです。

だって、公平の問題点は「支援を受けているのを見た側」としては特段問題に思わないし、平等の問題点は「支援を受ける側」にとってはどうでも良いことですから。

 

公平・平等・公正についてのぼくの意見

ぼくは「公平であるべきか、平等であるべきか」論争については「支援を受ける側」の意見を採用したら良いと思っています。そしてそれは「公正に判断されるべき」です。

理由は、困っている当事者は「支援を受ける側」であって、「支援を受けているのを見た側」ではないからです。

しかし、世の中はそう簡単にいかないのが実情で、「支援を受ける側」と「支援を受けているのを見る側」が同じ人ということが十分あり得ます。

今回のお金の件に限らずですが、「所得減者に30万給付」の時は「支援を受ける側」が文句を言い、「一律給付」の時は「支援を受けているのを見る側」が文句を言う。そして、当事者たちは視点が変わっているのに気付いていない。

そんなことが起こっているような気がします。

また、政府も「支援を受ける側」にいちいち伺いたてをしている時間はありません。(それはコロナ禍だけではありません)だから、選挙をして、「国民の総意」を聞いているわけです。そこで投票もしないで批判をしているような方々は自分の所にブーメランしていると気付いてほしいものです。

これらを加味した上で、「公正に判断する」ことがされていれば良いなと考えています。そうしないと「独裁」と何ら変わりがありませんから…

 

今回は久しぶりに時事問題に触れて書いてみましたが、こんな状況だからこそ「政府批判」ではなくて、「国民共生」をはかっていきたいものだなと感じています。

それでは、またいつか。

 

今回の件についても、それ以外についても意見を募集しております。ぜひ書き込んでください。

勉強について

どうも、凡人るいちです。

つい最近桜が咲いたと思ったらもうすでに散り始めていて、季節の移り変わりが本当にはやいなと感じている今日この頃ですが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。ほとんどの方が「おうち時間」を満喫していることかなと思います。

ぼくも「おうち時間」を絶賛満喫しているところなので、今日も10時間ぐらい寝ていました…笑

おかげで生活リズムがバグってしまいましたが、長期休みあるあるなのでどうにかして解消しようと思います。

では、いつもの前振りの話はここらで終わりにして、ここからは「勉強」についてお話ししていきます。

以前の記事で、「勉強と学問の違い」や「試験の必要性」なんかも書いたのですが、今回は「じゃあ、根本的に勉強ってどうやるのさ」ということを話します。

 

ruiyuu-zatsugaku-jiji-1998.hatenablog.jp

ruiyuu-zatsugaku-jiji-1998.hatenablog.jp

 2つの記事は貼っておくので、気になった方はこのまま読み進める前に覗いてみてください。

では、早速本編にいきましょう。

 

勉強って何?

毎回のことですが、そもそも論の「勉強って何か」ということから解決していきましょう。

いつもは先に辞書の定義を書くのですが、今回はぼくの考える「勉強」の定義をお話しします。(もしかしたら、以前の記事と違うこと書いているかもしれません。)

ぼくは「勉強」を「ある強制力によって動かされる外的要因に起因するもの」だと思っています。この定義にするということは当然反対の「ある強制力によって動かされない内的要因に起因するもの」があるということになります。ぼくはそれを「学び(=アクティブラーニング《ここでは、教育学的な「主体的・対話的で深い学び」という意味ではなく、一般的に解釈される「主体的な学習活動」という意味で等号をつけています》)」としています。

少し脱線しつつありますが、あくまでもぼくは「勉強はいやなもの」と考えていると思ってください。この後の話はすべてぼくの定義に沿ってお話していきます。

では、改めてですが、(一般論としての)辞書的な意味を引用しておきます。いつも通り、大辞林新明解国語辞典を引用します。

 

「勉強」

大辞林:①学問や技芸を学ぶこと。学習。

    ②ある目的のための修行や経験をすること。

    ③商人が商品の値段を安くして売ること。

    ④物事に励むこと。努力すること。

    ⑤気が進まないことをしかたなくすること。

新明解:「ーする」:そうする事に抵抗を感じながらも、当面の学業や仕事などに身を入れる意

    ①物事についての知識や見識を深めたり特定の資格を習得したりするために、今まで持っていなかった、学力・能力や技術を身につけること。

    ②そのときは後悔したりそうしなければよかったと思ったりしても、将来の大成・飛躍のためにはプラスとなった経験。

 

毎度思うことですが、大辞林は淡泊なのに対して、新明解は情熱的ですよね…笑

この一般的な定義からもみなさんの「勉強観」を作っていってくださいね。

この章の復習としてですが、「勉強はいやなもの」であり、「つまらないもの」であるということです。

では、「そんないやな勉強をどうやったら良いのさ」について書いていきましょう!

 

勉強の方法のはなし

まずは、前提として何度も繰り返しますが、「勉強はいやなもの」です。

でも、多くの人は勉強をしているすべての瞬間が「いやなもの」だったわけではないと思います。それは当然の話です。だって、人間の心理的「いやなもの」であれば優先順位は自然と下がっていき、他のことが優先されてやらないはずですから。

例なんかは出す必要がないと思いますが、大学生の長期休暇といえば、「寝る、バイト、youtube、遊び」でしょう。(完全に偏見ですが…)そこには「勉強」は決して入ってきません。先に出した大学生の長期休暇の典型の4つが「楽しい」からやっているのではなく、単純に「勉強」をすること自体が「いや」だからやっていないわけです。

しかし、みなさんはなぜか「勉強」を最優先でやっていた時期があります。それは大学受験です。(それ以外の試験でもよいですが。)

これはおそらくですが、ぼくの定義から言うと「学び」になるのだと思います。だから、みなさんは「勉強」をしたことがほとんどないと思います。

なぜ「学び」になるのかというと、「ある目標に向かって取り組んだこと」だからです。

例えば、「東京大学に入学したい」という目標を持ったときに、自分自身で次の行動を「じゃあ、苦手教科の数学を勉強しようか!」となると思います。間違っても、「東京大学に入学するためにたくさんバイトしよう!」とはならないと思います。

この「しよう!」という意志自体が「内発的動機」なのではないかということです。そしたら、すでにそれはもう「勉強」ではなく「学び」なわけです。

目標自体が「外的要因」によって起因されているのではないかと反論がありそうですが、そのスタートが「外的要因」でも、行動が「内的要因」になることはあります。例で出した大学受験ですが、「大学受験」は確かに「外的要因」になります。それ自体がターゲットになるものなので。しかし、そこで考えられる行動は2つあります。そして、その両方とも「内的要因」です。1つは例と同じように「志望校に向けて勉強(学び)を始めること」。もう1つは例とは反対で「大学に行かないから勉強(学び)をしないこと」。基本的にはそれ以外はありません。でも、確かなのはどちらも「内的要因による行動である」ということです。

さて、少し話がずれましたが、結局のことみなさんは「勉強をしていない」ということです。

「そしたら勉強の方法は…?」となりますが、勉強したことがない以上、勉強方法なんてものはありません

でも、それじゃあ「学びを無意識でやれば効果が出るのか」というとそうでもないので、最後の章で「るいち流学び方講座」をします。

 

るいち流学び方講座

まず大前提として、学び方は十人十色です。このやり方が絶対ということでもありませんし、このやり方が間違っているということでもありません。

大切なのは、たくさんの方法を試してみて「最も自分に合うやり方を探す」ことです。そのための参考にしてみてください。

インプットとアウトプットの比を7:3(6:4)にする

インプットとはテスト勉強でいうところの「教科書を読む作業」のことです。分かりやすくいうと、知識を入れる作業のことです。

反対にアウトプットとは、テスト勉強でいうと「問題集をとく作業」「予想問題をとく作業」のことです。分かりやすくいうと、入れた知識を出すことです。

大切なことは「入れた分出す必要がある」ということです。

イメージできるか分からないですが、数学をインプットしただけだとすべてができるような気がすることがありますが、いざアウトプットしてみると全然できなかったり、ある特定の分野だけできたりすることがあります。

できない部分の穴を見つけ埋めるためには、必ず「出す」作業が必要です。「入れる」だけだと「できること」と「できないこと」が分からない状態、いわゆる「分からないところが分からない」状態に陥ってしまいます。この状態の人は問題集でも何でも良いので「知識を出す」をイメージして取り組んでみてください。

ちなみにアウトプットの方が多くなってしまっても、学び自体が楽しくなくなってしまうので、インプット:アウトプットは7:3か6:4の比率を意識してみてください。

ラバーダッキング法をする

この方法は分からないことを分かるようにするための手段でアウトプットの手法の1つです。

特に教員を目指して勉強をしている方(このブログを読んでいる暇はないと思いますが)はぜひ実践してみて欲しいです。

方法は簡単で、ぬいぐるみでもクッションでも(この方法は「お風呂のアヒル」から名付けられたものですが)何でも良いので、仮想相手を設定してその相手に伝わるように話すということのみです。

相手を設定するときは、「自分よりも年下(初心者)」にしてください。「分かっている人相手に説明」だと雑になってしまうので。

簡単に例を出します。(長くなるので簡略化しています。)

相手:中学3年生(4月)

内容:日本の選挙について(一般公立中学校だと中学3年生2学期末に行う単元)

説明:日本の選挙制度は3年に1回行われる参議院議員選挙とだいたい4年に1回行われる衆議院議員選挙に分けられます。まずは参議院選挙ですが、これは参議院議員の定員242人のうち半数の121人を改選する選挙です。もう半数はその3年後に改選されます。なので、参議院議員の任期は必ず6年になります。方法は選挙区によるものと比例代表によるもので行います。衆議院議員選挙は参議院議員とは違って、全員を一斉に選挙をします。また、衆議院は解散があるので、任期満了の4年で必ず選挙される訳ではなく、3年や2年で改選される場合があります。方法は1つの選挙区から1人を選ぶ小選挙区制と比例代表制の両方を使っています。

こういった感じで、独り言を言いながらテーマについて解説を自分でしていく方法です。

わかりにくい単語は補足説明を入れようとするので、自然と長い文章になってしまいますが、その分細かいところの「あれ?何だっけ?」を見つけることにもなります

ぼくの例だと、たぶん「衆議院って何?」とか「比例代表って何?」とかの質問が来ることが想定されるので、今度やるときはその補足もできるように調べていくようになります。

音読をたくさんする

すごく有名な手法ではありますが、インプットに効果的なのは「音読」です。

この手法がいい理由は、1つの作業で複数の感覚器官を使うことができることです。「音読」の最中には「見る・読む(目)」「話す(口)」「聞く(耳)」を動かしています。そこに「書く(手)」を追加することでより学習効果を上げることができます。

反面にデメリットですが、「人がいるところだとやりにくいこと」が挙げられます。どうしても音が出てしまう作業なので、仕方ない部分かなと思います。

答えから問題を作成する

最後にもう1つのアウトプット手法です。

多くの方が一問一答をやったことがあると思いますが、それの逆版です。

問題文を読んで答えを出すのではなく、答えを読んで問題文を出す作業をしていきます。

この方法では、「説明力がつくこと」と「問題の答えを1つに確定させるために答えについてしっかり理解すること」ができます。そして、もう1つはリアルで「この問題自分で作った問題だ!」を経験できます。

デメリットは、慣れるまではすごく時間がかかります。そして、インプットの精度が求められることです。雑なインプットではこの方法は効果を発揮しません。

 

こんな感じで4つのるいち流学び方講座を展開していきましたが、もうすでにやっていたり、知らなかったりしたことがあるのではないでしょうか?大事なのは闇雲ではなく、合理的に自分の勉強方法を探すことです。

ちなみに、ぼくは「歌を作って覚える」と「絵を描いて覚える」については挑戦しましたが、覚える内容とかかる時間の費用対効果が見込めなかったので諦めました。

こんな感じで、「できなかったことはやらない」を徹底することが「質の高い学び」につながるかなと思います。

 

久しぶりにこんな長い記事を書きましたが、普段から考えていたことだったので、つい楽しくなってしまいたくさん書いてしまいました…

これを読んでみなさんの「おうち時間」が少しでも有意義なものになることを祈っています。

あと、今後の方針についてですが、しばらくは3日に1回の投稿を目指したいと思います。(予定によってできないこともあるかもしれませんが…)

では、みなさんまた会いましょう。

 

質問箱に意見や感想、質問を書いていただけるととても励みになります!(DMもありがたいです!!)

真実はいつも1つ?

どうも、凡人るいちです。

最近はコロナウィルスの影響もあって、ほとんど外出できていない人が多いかなと思うのですが、そんな時のためにブログを更新をいつもより多めにしていけたら良いかなと思います。

この更新は裏でインスタライブをしながら書いているのですが、たまにはそうやって時間を使うのも交流できない中ではありなのかもしれないなと考えたりしています。

こういった非常時にも必要なことは、人と人とのつながりであって、正しい情報なんだなと感じています。

みなさんはこの1ヶ月何をしてすごそうと考えていますか?もしよかったら最後の質問箱におすすめの過ごし方とかも教えてくれると嬉しいです!あ、外出することはなしでお願いしたいです…

さて、今回はコロナウイルス関連で「情報」にフォーカスを当てたはなしをしていきたいと思います。

タイトルからお察しの方もいるかもしれませんが、某名探偵にけんかをうるわけですので最後まで楽しんで読んでいってもらえたらいいなと思います。

真実って何?

この話を進めて行く前に、「そもそも真実ってなにか?」をはなしましょう。

そして、同じように使われる言葉である「事実」の定義も確定させたいと思います。

まずは一般的な「真実」の解釈ですが、これはいつも通り大辞林新明解国語辞典を参照しておきます。

大辞林:うそいつわりのないこと。ほんとうのこと。また、そのさま。

新明解:あらゆる点からみて、それだけが偽ったり飾ったりしたところの無いそのものの本当のすがたであるととらえられる事柄(様子)。

うそいつわりなく、心からそう思っている様子。

という意味解釈が出てきます。

また、「事実」の意味解釈では、

大辞林:現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと。

新明解:実際にあった事柄としてだれもが認めなければならないこと。

というものが掲載されています。

大辞林ではどちらも同じような意味で書かれていますが、新明解では真実と事実の間には明確な違いがあるような書き方がされていますね。

ぼくの解釈は新明解国語辞典のものに近いのですが、

真実:自分が見たもの。主観的な判断。

事実:自分以外も見たもの。客観的な判断。

と考えています。

このように考えているので、ぼくは真実よりも事実を重んじています。

さて、今回はぼくの真実と事実の定義を用いてここからの話を展開していこうと思います。

 

真実はいつも1つ?

本題に入る前に先ほどの章の最後に書いた定義をもう一度確認しておきましょう。

真実:自分が見たもの。主観的な判断。

事実:自分以外も見たもの。客観的な判断。

 

では、「真実」はいつも1つなのでしょうか?

ぼくは「真実はいつも1つではない」と考えています。

理由は定義にも載せたとおり、「真実とはきわめて主観的なものだから」です。

どういう意味か分からない方もいると思うので、簡単な例を提示しておきます。

「あるカップルがいます。彼氏(Aさん)は彼女(Bさん)とつきあい始めてちょうど1年の記念にプレゼントを贈りたいと考えていました。しかし、Aさんはここ最近のはやりや女性がほしがるものが分からなかったため、友人の女性(Cさん)に一緒に選んでくれるように依頼しました。翌日、プレゼントを買いに行くAさんとCさん。その光景をたまたま友人と買い物に出かけていたBさんが目撃してしまいます。もともと、AさんとCさんが仲がよいことを知っていたBさんはその光景を見て、『AがCと浮気をしている』と考えました。そして、Aさんの帰ってきたアパートでBさんはAさんを殺害してしまいます。・・・」

といった話があったとしましょう。(実際に起こらないことを祈るばかりですが…)

この話の「真実」と「事実」を整理してみましょう。

「真実」(それぞれの視点で異なるので、異なったものが2つあります。)

Aさん:友人の女性Cさんとプレゼントを買いに行った

Bさん:AさんとCさんが浮気をしている。

「事実」(それぞれの視点で異ならないので、共通したものが1つ以上あります。)

AさんがCさんと出かけている。

(AさんはBさんに殺害された。)

このようになるかなと思います。

ここで大切なのは、「真実がいつも1つであったなら、この事件は起こらなかった」ということです。

この話において、「真実」が2つ存在してしまった。そのことが、この事件を引き起こしてしまったわけです。

そして、Bさんの真実はきわめて主観的で、短絡的なものであったと言えるでしょう。だって、「帰ってから問い詰める」ことも「勘違いかもしれないと思う」ことも「何かの帰りかもしれないと考える」ことも(客観的に見れば)できたのですから。

さて、この話ではBさんが悪いと考える人が大多数だと思います。(一定数、女と出かけたAさんが悪いと考える人もいるかもしれませんが…)

しかし、現実では「真実」が異なるためにどちらが悪いと判断を下せない状況がたくさんあります。

だからこそ、普段はあまり目にしようとしない「事実」に注目したら良いのではないでしょうか。

今回のこの例において、「事実」だけ捉えれば、事件にはならなかったのではないかと思います。また、「事実」は1つなのだから疑いようのないことでもあります。

みなさんには、この「事実」を基に価値判断をしてもらいたいです。

最後に、「事実」を用いた価値判断の方法をお話しして終わりましょう。

 

事実で判断するために

「事実」で判断するために大切なことが3つあります。

1:自分と他人の感情を除くこと

2:主体(主語)をはっきりさせること

3:1つの事象を複数の視点で捉えること

この3つが重要になります。

1についてですが、「感情」というのは良くも悪くも主観的なものです。

例えば、1人の女性を見て、「かわいい!!」と思う人もいれば、「かわいくない!!」と思う人もいるわけです。そして、同じ「かわいい!!」と言う人の中でも、「目がかわいい」のか「声がかわいい」のか…と違いが明確にあるわけです。

この「感情」には「真実」が紛れ込んでしまうので、排除して考えましょう。

また、「感情」かどうか見極めるために必要なことは「形容詞(かわいい、きれい、楽しい、面白い…)が入っているかどうか」と「副詞(とても、すごく…)が入っているかどうか」です。このフレーズが出てきたら、(面倒な人だと思われますが)「どこがそう感じたのか」を聞くことで「事実」に近づけます。

2については、そのままで主語が分からないと「真実」か「事実」か判断のしようがないからです。

例えば、「日本人は礼儀が正しい」というのは一見「事実」のように見えますが、「真実」でもあります。だって、日本人全員が礼儀正しければ、大きな問題は起こらないはずですから。(おそらく、この例文においては「真実」が強いかと思います。)

主語を普段から明確にすることが、誤解のない「事実」を伝えることが出来ると思います。

3については、主観的ではなく客観的になる方法です。

私たちの多くは1つのものを1つの視点でしか捉えません。

例えば、車を見たときに(普通であれば)「車」と思うはずです。(それ自体は「事実」です。)それを視点をいくつも持って他の見方をしてみようということです。

そうすれば、「殺人兵器」と考えることもあれば、「人生の中でかなり金額が高いもの」と考えることともできます。(これがいわゆるラテラルシンキング=水平思考です。)

これらの方法によって、「事実」のみを抽出できるようになるのではないかと考えています。

もちろん、他の人とのディスカッションが大切になるわけですので、お互いの「事実」を共有して、一段上の「事実=共通見解」に結びつけていくことも必要です。

このようにして、みなさんのまわりにあふれる情報を「真実」と「事実」に分けてみてください。(このブログは「真実」にすぎません。)

そして、「事実」も大切にしながら、「真実」にも耳を傾けることをお忘れなく。

 

それでは、今回の記事はこれくらいにしておきましょう。

コロナウイルス関連の情報が錯綜していて、SNS等では様々な罵詈雑言が飛び交っていますが、こういったときに必要なことが「メディアリテラシー」であり、「自分自身の判断軸」です。

決してまわりに流されず、思考していってください。そして、月並みですが、不要不急のが移出は避けましょうね…

あと、ブログをしながらのインスタライブですが、めちゃくちゃに効率が悪かったのでもうしません…笑

 

こちらから、質問やリクエストを随時募集してます。どんどん書き込んでいってください。

わたしとあなたの関係

お久しぶりです。凡人るいちです。

最近暖かくなってきたと思いきや急に雪が降ったりする変な気候の中、思いっきり体調を悪くしてしまい、人生初めての「バイトの病欠」を経験しました。

昨今話題のコロナウィルスではなく、ただの季節性の風邪だと思うので、ご心配なさらず。

さて今日は、「わたしとあなたの関係」と題しまして、この春によく起こりがちな人間関係についてお話ししたいと思います。

とはいっても、毎回人間関係のことは書いていると思うので、今日はより簡単に手短に読めるようにしてみます。

人間関係の悩みは当たり前

すごい強い言葉(ぼくが使う“強い言葉”とは誤解される可能性がある言葉を意味します。)ですが、割と理解してもらえるところではないかと思います。

理由は簡単です。「価値観が違う」からです。これは常に書いているところではあるので、今回はこれではない視点から書きたいと思います。

さて、「悩む」という動作・感情についてですが、簡単なメカニズムがあります。それは、「分からない」からです。

当然といえば当然ですが、「悩む」時はそれを忘れてしまっている事があります。

さて、逆算して「悩まない」ためには「分かっている」事が必要になるわけですが、そのためにはやっぱり「コミュニケーション」ですね。

新年度もはじまってすぐ、さらにこういった時勢の中で、なかなか人と会って話をすることが難しいとは思いますが、最近はLINEなどのコミュニケーションツールができているので、だいぶ障壁が下がっているのではないかと思います。

しかし、これには欠点があります。それは「分かりたい人しか分からない」です。

LINEなどは典型例ですが、登録をしないと会話することができません。それももちろん大切ですが、「悩む」種は「分かろうとしなかった人」です。

時期尚早かと思いますが、「みんなのことを少しずつ」知っていくことが大切になってくると思います。

みなさんの新生活が「たくさんの人とコミュニケーションをとって人の悩み」に煩わされず、楽しいものとなることを願っています。

ぼくも多くの人とコミュニケーションをとって、最後の1年を楽しめたら良いなと思います。

 

↑ぼくとコミュニケーションをとりたい方はぜひどうぞ

「働く」について考えること。

どうも、凡人るいちです。

 

最近ブログの投稿頻度が上がってきたような気もしますが、これが普通なのかも知れません。

本題に入る前にいつもの雑談タイムといきましょう。今回の話とは全く関係ないですが、最近話題のウイルスくんのせいで今まで貯金してきたNISAが一瞬でマイナスに突入しました笑

今後のことを考えて、昨年の9月から始めたので、30000円ほど貯金していたのですが、-5000円は泣きそうです。おかげで、それだけ今回のコロナショックは経済にも大きな影響を与えていると分かりました…

 

さて、ここからが本題です。

みなさんは「働く」について考えたことはありますか?

多くの人が考えていることかと思います。たとえば、「働きたくない」とか「働かなくてもお金が欲しい」とか、もっと深いことだと「働いてても人間関係が…」とか三者三様のような気がします。それもそのはずで、これもいつぞやかお話しした「価値観」なのです。

では、今回はその「働く」の価値観をぼく視点で語っていこうと思います。

そもそも「働く」とは?

この「働く」の言葉の意味が分からないとせっかくの価値観もぼんやりしたものとなってしまいます。なので、最初に「働く」の定義についていくつかの辞書を引用しながら確定させましょう。

大辞林:①肉体・知能などを使って仕事をする。/②職業・業務として特定の仕事を持つ。/③機能を発揮する。/④そのものとしての力が生かされる。/⑤悪いことをする。/⑥語尾が変化する。/⑦動く。/⑧出撃する。

新明解:①からだ・頭を使って仕事をする。/②行動に駆りたてる何らかの精神作用が発現する。/③そのものの力が、他に影響を与える。/④反社会的な行動をする。

明鏡:①仕事をする。また、生計を立てるために一定の職に就く。/②知的・精神的能力が発揮される。/③機能が発揮される。/④文法で活用語の語尾が変化する。/⑤よくないことをする。

といったように、複数の意味があるようです。

少しグループで整理すると、

A:大①と新①が体と頭を使う「働く」

B:大②と明①が一定の仕事の「働く」

C:大③と新③と明③は人や物が機能として「働く」

D:大④と新②と明②は精神としての「働く」

E:大⑤と新④と明⑤は悪いことをする「働く

となると思います。(ぼくの解釈も入るので、異なるかもしれません。)

それぞれ話していくと大変な文量になってしまうので、今回はAとDでお話ししたいと思います。

体と頭を使う「働く」

さて、定義もいくつか出したところで、まずはAの深掘りをしていきましょう。

この定義は多くの人が考えるいわゆる「一般的な働く」だと思います。

この「働く」で考えないといけないことは、「頭も使うこと」です。

働くことを考えていく際、どうしても肉体労働ばかりが頭に浮かぶかもしれません。しかし、実際には何かを考えて働く(=頭を働かせる)わけで、それは実際の行動をしてみないと分からないレベルのことでもあります。

例えば、「営業」の仕事を思い浮かべてみてください。

 

日中のかんかん照りの中、ビルの建ち並ぶ都会でスーツを着たサラリーマンがビジネスバッグを片手に、汗をかきながら歩いている。そして、取引先についたらたわいない話をして商談に取りかかる。商談が終わるとサラリーマンは深々とお辞儀をしてつぎの商談へと向かう。

 

おそらくですが、こんなシーンが頭に浮かんだのではないでしょうか?

ぼくはこんな感じで想像していました。しかし、そこにいくつかの疑問をぶつけていきましょう。

「汗をかいて歩くサラリーマンは何を考えている?」「ビジネスバッグの中には何が入っている?」「ネクタイはなぜそれにしたのか?」「たわいない話は何を話したのか?毎回同じなのか?」「商談が終わった際、サラリーマンは何を考えていたのか?」「つぎの商談へと向かう際、何を考えている?」などなど、たくさんありますね。

さて、サラリーマンは「体」を動かしただけの「働く」でしょうか?どうやら、サラリーマンの行動ひとつひとつに意味がある可能性がありますね。(もちろん何も考えていないサラリーマンもいるでしょうが…)

だとしたら、ぼくたちが考えているAの「働く」にもまだ想像していない部分が含まれているかもしれないわけです。

ちなみに、Aに対するぼくの就活での考え方は「体よりも頭を働かせる仕事をしたい」です。もちろん行動もしたかったので、「考えながら動ける」を重視したと言えるでしょう。

 

精神としての「働く」

さて、もう一つお話しするDの「働く」です。

これはぼくの「働く」に近いものがあったのでピックアップしました。

ぼく自身働く際に最も重要視することが、「自分自身の能力を最大限発揮できること」です。

実際に「何が最大限発揮できる仕事」なのかは分からないことが多いですが、ただ間違いないことは「誰かのために、何かを改善する」ときに最大限の力が出るように思います。この希望が満たされないと、ぼく自身はCの「機能としての働く」が達成されないように思います。

ぼくの話は置いておいて、「なぜ精神なのか?」と疑問を持つ方もいるでしょう。しかし、みなさんは普段から「働く」を「精神」で考えているかもしれません。

というのも、もしあなたが友人からバイトでの悩み相談をされたときになんと答えますか?

これは人それぞれだと思いますが、「新しいバイト先探したら、気が楽になるかもしれないよ。」とか「何でそう思うの?」とか、一昔前であったら「そんなこというなんて、根性が甘ったれている!!」とか答えるかもしれません。

でも、これってすべて「仕事は気の持ちよう」だとどこかで考えているからかもしれません。そうでなければ、わざわざ「自分のやりたい仕事」を選ぶことなんて無いはずですから。(もちろん、合理性は大切になりますが…)

「やりたい仕事だから頑張れる」し、「誰かの役に立つかもしれないから続けられる」。そんな気持ちがぼくたちを「働く」に導いているのだと思います。(きっと無意識的にしているはずです。)

だから、ぼくはその「精神」はすごく大切にしたいと思います。

 

さて、若干の尻切れトンボ的なところはありますが、「働く」について考えるきっかけにはなったでしょうか?

ぼくの意見を最後に簡単におはなしすると、ぼくにとって「働く」とは、「ぼく自身が生まれてきた意味を残す手段であり、誰かがその意志を継ぎ続けるもの」だと思っています。

考えても考えても、「働く」についての悩みはなくなることはないですが、共感したり、考えが修正されたりしていたら書いた甲斐もあったかなと思います。

よかったら、みなさんの「働く」についても教えてもらえたら嬉しいです。

 

ぼくの質問箱で、みなさんの意見やリクエストなどを募集しています。よろしければ気軽に送ってください。必ず何らかの形で回答します。(個人名が含まれているものを除く)

卒業って早いですよね…

どうも、凡人るいちです。

今朝もブログを更新したばかりで、今日の夜も更新するなんて、僕もかなり驚いているのですが、バイト先の卒業パーティーがあったので、感慨深く思い、また更新してみます笑
1日2度更新ははじめてかもしれませんね…笑

少し飲んでいるところがあるので、いつも以上に勢いで記事を書かせてもらいます。

今思うと、大学生の4年間って本当にあっという間だったりするのかなと思います。
その中で、何人もの人生の先輩に様々なアドバイスもいただきましたし、「この人みたいになりたい!」という方向性の指針も示していただきました。
そんな先輩方もあと数日で各々の進路に進まれてしまうわけです。
すごく寂しいところはありますが、これからはその先輩に倣って僕達が後輩たちの指針にならないといけない自覚も出てきましたし、このままではいけないなという焦りもあったりします。
周りの偉大な先輩方に負けないように、そしてその先輩から認めてもらえるように頑張ります。

これまでお世話になってきた先輩方各位、本当にあっという間の期間でしたが、ありがとうございました。そして、これからの活躍を遠くの地からはなりますが、全力で応援させていただきます!
また、よかったら先輩方もぼくたちの活躍を密かに祈っていただけたら幸いに思います!

本当にありがとうございました!!!!

非常に簡略な形ではありますが、ぼくから卒業生に向けた最後の餞の言葉として受け取ってください。

それては、またいつか。