ぼくたちは何を見ているのか
お久しぶりです。凡人るいちです。
前回書いたときは、年明け早々で、「今年の目標を次の記事で書いておく」なんていった記憶がありますが、いよいよ忙しくなりすぎて、そんな余裕がなくなってしまいました…笑
ですが、書かないで今年を始めるなんてすごくぼくらしくないので、今年の目標を簡潔に書いておきます。その後本題に移っていきましょう。
今年の目標は、「ぼくにとって一番良い進路を見つけること」「ぼくにとって一番成長した1年にすること」「とにかくたくさんの“楽しい”を経験すること」の3つです。どれも難しい目標だと思いますが、一つずつ順番にクリアしていくとしたいですね。
最優先課題は「進路」になると思いますが…
では、ぼくの今年の目標はこのくらいにしておいて、ここからは本題に移っていきましょう。
今回のタイトルは「ぼくたちは何を見ているのか」というとても想像のつかないタイトルです。でも、そこには意図を含めています。最後まで読んでみて、分からなければ、ぼくの文才が乏しい証でしょう。
見るものが多すぎる時代で
ぼくたちの暮らしている現代では見るものが非常に多くなっています。
昔は風景を見たり、となりにいる人を見たりとそれくらいしか見るものがなかったとも思います。今ももちろん、風景やとなりにいる人を見ることはあると思います。しかし、それ以上に画面を見て、自分を見て、下を見ている人が増えたような気がしています。
人間の目はそのすべてを見れるような素晴らしい便利な機能は残念ながら持っていません。なので、ぼくたちは多くの視覚情報を「恣意的に」選んでいると言えます。
つまり、見たいものを見て、見たくないものは見ないということです。
例えば、ある機種のスマートフォンが欲しければ、それに対応する情報がたくさん自分の目に入ってくることになります。それが、友達の持っているスマホなのか、ネットで流れてきた記事なのかは人それぞれでしょう。
この情報を「恣意的に」選んでいるということは今後の話の中で大切になってくることです。覚えていてください。
さて、そんな時代において、何をもって「自分の見ているものが正しい」といえるのでしょうか?そして、何をもって「自分は公平に情報を集めている」といえるのでしょうか?
今日はそんなことを考えていきたいと思います。
「正しい」は「正義」なのか
ぼくたちが見ている情報は、一人一人違うのは先ほどの「視覚の恣意性」で理解いただいていると思います。ということは、同じものを見ていても、また体験していても抱く感想が変わってくるのはまた当然のことです。
そして、その感想が「正しい」ということではないのも当然のことです。
ぼくにとって「正しい」ことが、みなさんにとって「正しい」にはならないことがほとんどだと思います。(その逆もまたしかりです。)
その際に「正しい」を決めるのは「自分自身」であり、「正しい」を信じるのも「自分自身」です。
世界では「自分で選んだものを正解にしていく」とも言われますが、まさにその通りだと思います。その「正しい」(場合によっては「正しくない」も含まれると思いますが)が、自分自身の価値観(=人生の方向性)になるのだと思います。
簡単にいうと、「嘘が嫌いな人」は嘘をつくことをしないだろうし、「らくをしたい人」はわざわざ自分から辛い道へ進もうとはしないはずです。
そうやって、自分の人生の方向を決めていきます。
しかし、この「正しい」には問題があります。それは、冒頭でも述べたように「他の人と同じとは限らない」ということです。もちろん、おなじ”ような”「正しい」を持つ人はいるかも知れませんが、”全く”おなじではないはずです。
このことは、みなさんが理解しているとおりだと思います。
ただし、ぼくも含めてまれに「正しい」を押しつけてしまうことがあります。つまり、自分の「正しい」を世の中の「正義」だと思ってしまうことがあるということです。
みなさんも経験があるかも知れませんが、SNSとかでつぶやきに対してマウントをとってくる行為はこれの1つだと思っています。
ぼくたちが生きづらくなっている理由にはこの問題が一つの要因かも知れません。
ここからは、あくまでぼくの一意見として、「価値観は人それぞれで当たり前。そしたら、自分の価値観とぶつけて磨いたらどう?」と思います。簡単に言えば、「価値観同士で議論せよ」といった感じです。そうすることで、広い価値観を手に入れられるんじゃないでしょうか?という提案です。
ぼくたちが見ているもの同士を「すりあわせ」する。それではじめて、一つのものの見方が完成するんじゃないかなと考えています。
さて、少し話がそれつつありますが、まとめると「自分の見ているもの(=自分の価値観)とまわりが見ているもの(=相手の価値観)をたくさん共有しようじゃないか。そうしたら、きっと真の意味での「正義」に近づくはず。」ということです。
これは「視覚の恣意性」があることによって初めて成立するものだと思います。
また、「価値観の受容」と何が違うのか。ということについてもお話しして、終わろうと思います。簡単に言うと、「お互い主張すること」が違いになります。受け入れるだけではいつかはあふれてしまいます。その前に、自分の価値観も流してあげる。それがぼくの思うものです。
さて、復帰初戦とあって、考えがまとまっておらず、非常に読みにくいですが、ぼくたちは「目という感覚器官を通して、自分の価値観を見ている」ということが伝われば良かったなと思います。
まだまだ、書きたいことが多いのですが、ブログというメディアを使っている以上、ぼくの価値観のみを話してしまいます。なので、ここらで締めておこうと思います。
ぼく自身の活動も収束を迎えてきているので、段々と書けるようになると思います。また、楽しみに待ってていただけると嬉しいです。
そして、みなさんの価値観をぼくに共有してくれれば空っぽになってしまったぼくの「価値観の器」に新しく入れられると思います。
それでは、またいつか!
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— るいち ゆうや≒ブラウニー (@1105Monkey) 2020年3月12日
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