凡人るいちの徒然ばなし

徒然なるままに書いていこうと思います。ぼくの考えたことを多めに時事問題と絡めてお届けしようと思います。参考になるかも知れないし、ならないかも知れない。けど、ぼくへの見方は変わるかも知れない。

学問とはどういうものなのか

どうも、凡人るいちです。

今回の記事は意外にも人気があったりしたり無かったりする凡人るいち哲学です。

テーマは“学問”です。ぼく自身が大学という学問をしていく場所に在籍していることもありますが、今後大学を卒業していっても“学ぶ”ということは継続していかなければならないと考えています。

ということで、今回はぼくが考える“学問”とは何であるかを少しお話ししていきたいと思います。

学問と勉強の違い

ぼくは学問と勉強については一定の差別化が出来ているものだと考えています。

もっと具体的に言うと、高校まででしてきたものは“勉強”で大学以降でしていくのが“学問”といった感じです。

では、まずなぜ高校までは“勉強”でしかないのかということについて話していきます。

高校までの学習(ここでは“勉強”とも“学問”とも違ったものとして“学習”を使っていきます。本来の意味とはちがいますがご容赦ください)は、基本的には「誰かにやらされてきた」ものではなかったでしょうか?

たとえば、「義務教育だから小学校や中学校に行く」とか「高校に行かないと今時働き口がないから進学する」などなど、家庭や社会に要請されて学校に行くという受動的なものだったと思います。

とか言っているぼく自身も高校時代にはそこまでモチベーションは高く維持できませんでしたし、なので高校までの知識はほとんど残っていないです。おそらく好きでもないことを無理矢理ごまかしてやっていたからだと思います。

こんな感じで高校まででは、どう頑張っても「やらされている」という気持ちが前面に出てしまうような気がします。(もちろんそうではない人もいるとは思います)

ただ、それと比べると大学という機関、それに加えて大学院という機関はそれではやっていけないが実情です。

それはなぜかというと、大学以上の学習では自発性が求められるからです。

ここまで12年間も受動的だった人たちがそんなすぐに変われるのかというとそれこそ人それぞれだと思います。

大学という機関は、「行かされているから行く」という場所ではなく「これをもっと知りたいから行く」という感じで明らかに目的が変わっていくのは気付くと思います。

例えば、「経済学を知りたい!」だったり「人の心の動きってどうなっているのかな?」など動機はそれぞれだと思います。

ぼくの場合は「教員になりたいから行く」というのがスタート地点でしたが、大学で“学ぶ”うちに「政治教育をどうにかしてあるべき社会にしたい」という風に変わったりしています。

これが“学ぶ(=学問)”と“勉強”の違いだと思います。

何も目的を持たずに大学に来るぐらいなら、その4年間をさっさと社会のための労働力として提供したらいいとも思っています。

なぜぼくたちは“勉強”をしてきたのか

前の章では結構厳しい話もしましたが、ここからはなんでぼくたちは“勉強”をしてきたのかを考えていきたいと思います。

あくまでもぼく個人の見解ですが、「“勉強”は学問や何かを考えるための材料づくり」だと思います。

なぜそう考えるようになったのか?というと、あるとき高校生に「勉強して何の意味があるんだ?」と聞かれたことがありました。その当時はそんなことを考えたことなど無かったので「特に理由など無いと思うよ」という話をしました。考えていないことをそう話したことはかなり無責任だったと思います。そのときその話を聞いていたある人に「まだ勉強の本当の意味に気づけていないけど、これから分かるよ」というように言われました。そこから思考していき、「全てのことはつながっているな」とまとまっていきました。これが理由です。

わかりやすく具体例を出していきましょう。

ある知り合いにピロシキを作ってくれと頼まれたとします。

何も知らない中でピロシキを作れるでしょうか?おそらく、「とりあえず、和食ではなさそうだ」と思うぐらいが限界かと思います。材料も分からなければ、調理法も全く分からないという状況に陥ると思います。

でも、もし「ピロシキはロシアの方の料理だ」や「温かい食べ物だ」など情報を事前に“勉強”していればある程度の想像はつくと思いますし、調べて確認することも可能です。(調べること自体が“勉強”なので何も知らないときに調べても“勉強”になるのですが)

こういうことだと思います。知らないことは深く考えられないし、そもそも言語化できないかもしれません。

これが“勉強”する意義でもあり、価値でもあると思います。

こう考えていくと少しは“勉強”を楽しめるのではないでしょうか。ぼくは「楽しくなければ勉強じゃない」と思っているので、魅力が伝わっていれば嬉しいです。

結局、学問とは何であるか

ここまで長々と書いてきた“学問”と“勉強”についてようやく結論を書いていきましょう。

ぼくは、「学問とは、既存の知識や常識を疑い、新しい発見をするものである。」と考えます。これに関しては十人十色の“学問”があると思います。

だから、学問を極めていくものは時に孤独であると思います。なぜなら、100人が正しいと思っていることに1人で嘘だと主張していくのですから。

ぼくはまだ“学問”を究めたことはないです。もっといえば、何も究めたと言えるものはないです。ただ、それでもこう想像をすることは出来ます。学問を究めたあとは、なんともいうことができない感情に達するのだろうと。

ぼくの究極的な目標は、「世の中の常識をぼくがつくること」です。それは学問でのみ達成できうるものだと思いますし、それが一番の楽しみだとも思います。

 

今回は、“学問”と“勉強”という暮らしに密着したものをテーマに取り上げてみました。

ぼくの話が多くなってしまったのが恐縮な点なのですが、これがきっかけで明日から“学問”や“勉強”をやってみようというようになってもらえれば、書いたかいがあります。

最後にもしかしたらピロシキが気になるという方がいるかもしれないので、レシピを貼っておきます。もし作ったらぼくに差し入れしてくれると喜ぶと思います。

今週も最後まで見ていただきありがとうございます!!では、また来週お会いしましょう!!

ピロシキ

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